嘘の功罪- 人は嘘によって人間関係を保っている? -

嘘をつくと真実の口に手を噛みちぎられる

先日、私の主催する講師養成のセミナーで、嘘について考えさせられることがあった

 

私が養成している講師の一人が、トレーニングとして課した講義の一節で、

 

「人間関係を保ちたい時には、嘘をつきましょう」

 

と言った。

 

しかも、その言葉には、

 

「私の先生は上野大照です。先生がそういったのですから、この言葉の責任は大照先生にあるんです」

 

という言葉が冗談交じりに添えられていた。

 

私はその講義の最後に、ある意味講師を育てている責任をとるような意味合いを込め、補足として

 

「人にはそもそも、自分が正直に思っている気持ち以上に、目の前の人との関係を保ちたい、嫌われたくない、自分の居場所を失いたくないという本能的な欲求のようなものがあり、その表現を嘘と言うんです」

 

と伝えた。

 

参加者は納得した様子。

 

セミナーは無事に終了した。

 

しかし、その後、

 

『あの言葉は誰の為に言ったのだろうか。もしかすると、自分を守りたかったのだろうか』

 

と考えさせられることとなった。

 

そんなことがきっかけとなり、数日、嘘という事柄について熟考してみている。

 

熟考と言っても、気がかりと言った方が本質に近い。

 

そして『嘘』と聞くと、自分の人生で思い出すことがある。

 

私は自分が4歳の頃に両親が離婚し、三兄弟の末っ子だった私は、それを期に兄二人とも別れることとなった。

 

つまり母と子の二人暮らし。

 

初めの頃こそ他の家との違いはわからなかった。

 

時が進むにつれ、友達には普通に父親が居ること、休みの日になると車でないと行きにくいような遊園地やショッピングセンターなどに連れて行ってもらえていたりすることなどを、羨ましいと感じるようになった。

 

休日はお父さんとキャッチボールをするという友達には、何か勝手に孤独を感じてしまっていたりもした。

 

僕にお父さんは居ない。

 

母は当時小さなスナックを経営し、家計を切り盛りしてくれていた。

 

残酷な言葉とも知らず、母に

 

「僕は友達みたいにお父さんが欲しいんだ」

 

などと言ったこともあった。

 

「そうだね」

 

ニコリと子どもから見てもわかる嘘の作り笑い。

 

そのときの母の困ったような悲しいような顔を覚えている。

 

ある日、とても仲の良くなったYくんという友達が、そのご両親と一緒に、僕にお父さんが居ないこと、兄弟も離れ離れになってしまったこと、母はスナック勤めなので夜居なくてさみしいことなどを聞いてくれた。

 

とても親身になって聞いてくれた。

 

たくさんたくさん話した。

 

1時間は話していたような気がする。

 

話せば話すほど、心が軽くなる。

 

そのことが自分にはとてもうれしく、心が晴れ晴れとした。わかってくれる人が居るんだと思えた初めての経験だった。

 

こんなに気持ちが晴れることがあるんだ。

 

家に帰るとこの嬉しかった気持ちを、早速母に伝えた。

 

母は怒った。

 

特に父が居ないことと、スナックに勤めていることを言ったのに対し、顔を真赤にして怒鳴りつけられたのを覚えている。

 

私には一瞬、何が起こったのかわからなかった。

 

母を怒らせることをした覚えはない。

 

「あんたそれどういうつもりで言ったの?恥ずかしいことだってわからないの?私たちが危険になってもいいの?」

 

そんなことを言われた気がする。

 

恥ずかしいって何だろう。

 

危険ってどういうことだろう。

 

正直に話すと何か怖いことがあるんだろうか。

 

自分は何も困っていないような、平気なフリをしていたら良いのだろうか。

 

それに限らず、当時母の精神は荒れていたような気がする。

 

その頃から、とにかく父が居ないことや母がスナックに勤めていることなどを言わないようになった。

 

それから前以上に見栄をはったり、偉そうにすることが増えてしまった気もする。

 

知ったかぶりで見栄っ張り。

 

友達にもそんなことを言われたことがある。

 

母には事ある度に怒られた。

 

「あなたは嘘つき。人は信用が一番大切なの。信用を失うと、生きていけなくなるわよ!」

 

嘘をつきたいわけじゃない。

 

怒られたくなかったから。

 

認めてほしかったから。

 

僕は嘘つき。

 

しかしそれはばれちゃいけない。

 

ばれると信用を失う。

 

信用を失うと生きていけない。

 

母の愛も、自分の居場所も失うかもしれない。

 

でもお父さんのことは友達に隠さないといけない。

 

お母さんの働いている場所は絶対言ってはいけない。

 

嘘もつかないといけない。

 

矛盾する教えが自分を蝕む

 

深く染み付いた相克し合う概念は、無意識下で私にどんな影響を与えているというのか。

 

僕は嘘つきでダメな人間だったのか。

 

その疑いは晴れたのか。

 

はたしてそのままなのか。

 

僕に限らず、人は大なり小なり嘘をつく。

 

その健全な意図は初めに書いた通り。

 

だからこそ僕は自分の言葉を守りたい。

 

嘘を言うことは、人の心を一時的に安定させる。

 

それはきっと相手との期間限定の人間関係を保証されるからだろう。

 

私が母と友人達につき続けた嘘のように。

 

しかしそれは抑圧を隠した一種の快楽であり、深く満たされることもなければ、結果として誰かを傷つけてしまうこともある。

 

嘘はやはり良くない。

 

だからといって嘘をついてしまう心理は、過去の自分史に刻まれた、心の傷という刻印が衝動的にやらせるのかもしれない。

 

人は嘘をつく。

 

その嘘を責めるのもまた、酷なことなのではないだろうか。

 

いつ話したのかも覚えてない授業の一コマ。

 

私は生徒に対し、そんな無意識的な思いを抱えながら、伝えたのかもしれない。

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